太陽コレクション 城下町古地図散歩4
大阪・近畿[1]の城下町」所収
〈1996(平成8年)10月発行 平凡社〉

大阪 御城下めぐり

道頓堀「芝居づくし」


道頓堀の軒を連ねる芝居小屋では、
連日朝からさまざまな芝居が上演された。
川面には茶屋の幟(のぼり)が映り、
川の岸辺は舟に乗って道頓堀入りする
人気役者をひと目見ようと、
多くの人で賑わっていた。

  −−頃は、十月十五夜の月にも
  見えぬ身の上は
  心の闇のしるしかや
  ………移り香も何と流れの
  蜆川(しじみがわ)、
  西に見て朝夕渡る
  この橋の天神橋はその昔………。

 近松門左衛門の浄瑠璃『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)の道行き部分の一節である。
 このあとに、梅田橋、緑橋、桜橋などなど全部で十数の橋の名を織り込みながら、情死にいたる相愛の男女の心情をうたい、これを「名残りの橋づくし」と名づけている。
 この名文句をちりばめた浄瑠璃ひとつを繙(ひもと)くだけで、江戸時代とくに元禄から享保期の最も経済的発展をみた大坂が彷佛とするのである。
 俗に八百八橋といわれるほどに橋が多いということは、川が四通八達している証拠に他ならないし、情死を美化する芝居がもてはやされた風潮もおのずと知れる。
 元禄元(1688)年から、宝永、正徳を経て享保20(1735)年までの約半世紀を近松門左衛門の時代と呼ぼう。
 中世的武家世界から解放され、庶民が人間らしい自由を得た時代である。
 この期の大坂の俳人・小西来山の句に、「お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ」というのがある。武張ったことから解き放たれて、平穏な日々を享受しているさまが端的に表現されている。まさに、この時代を道頓堀時代と言いかえても差しさわりあるまい。
『心中天網島』に先行すること17年、元禄16(1703)年に、近松は最初の心中物(世話浄瑠璃)を上演させている。
「この世の名残り、夜も名残り。死に行く身を譬(たと)ふれば、仇(あだし)が原の道の霜。一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数ふれば暁の、七ツの時が六ツ鳴りて、残る一ツが今生(こんじょう)の、鐘の響きの聞き納め」で名高い『曾根崎心中』。この名調子が観客の感涙を大いにしぼった。「心中物」の大ヒットは、ここに始まったのである。
 元来、操り芝居といえば、殿上人や武家が登場するものと相場が決まっていたものを、町屋のあらゆる階層の者が舞台上でせめぎ合うのだから、観客が度肝を抜かれたとて不思議はない。『曾根崎心中』『心中天網島』にしても、町人と遊女の心中物で、しかも架空の出来事ではない。身近で起きた事件を短時日で劇化したものだ。ちなみに『曾根崎心中』などは、大坂内本町(うちほんまち)の醤油屋の手代・徳兵衛と北の新地の天満屋遊女・お初の情死事件が起きたのが、元禄16年4月23日。その日からわずか15日目の、5月7日に竹本の芝居で上演されている。何という近松の天才ぶりだろう。
 ヒットした人形浄瑠璃は、役者により歌舞伎化され、ますます心中物ブームの火に油を注ぐこととなる。
 さて、こうしたブームを支えるには当然ながら劇場が必要とされる。この劇場と、さきに述べた川との関係がきわめて深いのである。
 元禄元(1688)年の『御城代御支配所万覚』によれば、「芝居数合十軒、内八軒、道頓堀」とある。
 つまり、大坂には芝居(劇場)は10軒あるが、そのうちの8軒は道頓堀にあるというのである。この数は、当時の京都における、「四条南側の芝居三軒、同北側の芝居二軒、大和大路常盤町の芝居二軒」と比べても、いかに大坂の劇場が道頓堀に集中していたかを示している。
 道頓堀は、その開削を行った安井道頓の名にちなんである。
 安井家は河内久宝寺の豪族で、豊臣秀吉に仕え、大坂城造営に尽くした功によって城南の地を拝領。慶長17(1612)年、旧梅津川を拡大し、東横堀の南端から西へ木津川に至る河川開削に着工。折から大坂の陣が起こり、従軍した道頓は戦死。彼の遺志をついだ従弟らの手で工事は続行され、元和元(1615)年に完成した。当初、これを南堀川と言ったが、徳川へと世が移り大坂城主となった松平忠明が、道頓の偉業を顕彰し、これを道頓堀と改称したという。

「悪所(あくしょ)」という言葉がある。江戸時代、芝居と廓(くるわ)は、ある一定の場所でのみ公許され、これを悪所と呼んだ。
 大坂での悪所のひとつ、芝居は、道頓堀に集められ芝居町を形づくることとなる。
 時代はやや下るが、寛政期の道頓堀細見図には、西方の戎橋から太左衛門橋、相合橋、そして東方の日本橋に至る間に、6軒の劇場が描かれている。これらは、公許の表徴(しるし)である「櫓(やぐら)」を掲げており、「六つ櫓」と呼ばれた。
 戎橋南詰から順に大西の芝居(のちの戎座・浪花座)、中の芝居(中座)、角の芝居(角座)、角丸の芝居(朝日座)、若太夫の芝居、竹田の芝居(弁天座)である。
 このうち、浪花座、中座、角座は、ほぼ同位置に現存する。現在、その前の道は道頓堀通りと呼ばれ、道頓堀川に直面していない。昔も同じだった。今、かりに中座の前に立って、北側(川側)を見ていただこう。そこには名だたる飲食店が軒を連ね、それらの裏手が川に面しているのを確認くださればよい。この、劇場から道路ひとつ隔てた川に直面した一帯に、往時、芝居茶屋が櫛比(しっぴ)していたのである。
 芝居茶屋は芝居町を構成する重要な役割を担っていた。
 たとえば、角座の桟敷(特等指定席)で観劇しようとすると、その席の権利を持つ特定の芝居茶屋に予約することになる。もっとも、芝居茶屋では興行の替わるたびに辻番付(次興行の宣伝チラシ)を贔屓(ひいき)客に届けて予約をうけてしまうほうが多かったらしい。
 芝居茶屋に着いた客は、茶屋の草履に履きかえ毛氈敷に座布団を配した桟敷席へ案内される。茶、たばこ盆の用意はもちろんのこと、菓子、酒肴までタイミングを見計らって茶屋の者が運び込んでくる。
 当時の芝居は、朝早くから夜までかかるのが常である。幕間も長い。幕間を茶屋で過ごす者も多い。着替え、化粧直し、用便などにあてる。打ち出し(閉幕)後は、贔屓の役者を呼んで酒宴の段取りまで整える。茶屋は客に対して、いたれり尽くせりだ。もちろん、これだけのサービスを受けるには、目が飛び出すほどの出費がともなう。安直に観劇したい向きは、木戸銭を払って追い込み席(大衆自由席)で観ればよいわけである。
 道頓堀の芝居茶屋は、いろは茶屋とも呼ばれた。いろは47軒あったからである。寛保初年、江戸から上ってきた市川海老蔵が高津(こうづ)の社(やしろ)から眺めた景色を、こう詠んでいる。

  高き社(や)に
  のぼりて見れば
  いろはに帆

 道頓堀川に映える数多(あまた)の茶屋の幟が、江戸役者の目には、満艦飾と映ったであろう。
 大坂上りの役者のことが出たところで、川の大切な役割を述べておく必要があろう。役者や一座が興行地へ到着したときの儀式を「乗込み」と言い、大抵は駕籠(かご)を利用する。しかし、ここ道頓堀へ乗り込むときに限っては、舟を使う。せっかくの水利を生かさぬてはないのである。
 市川海老蔵ほどの人気役者ともなると、幟を立て飾った何艘もの舟を従えて道頓堀入りする。囃子方(はやしかた)、幇間(たいこもち)、芸者衆とつづくあとの舟に乗った役者は、両岸で出迎えてくれる群集に挨拶をおくりながら乗り込む。これを「舟乗込み」という。
 ことに初上りの役者には、たまらない情趣を催させたろう。嬉しいことに、この「舟乗込み」、周囲の景観と水の色は異なるとはいえ、今も行われている。
 登場人物への感情移入という点では、人形よりは役者の演技が勝るだろう。傾城(けいせい)買い(廓遊び)する優男(やさおとこ)の役どころを和事(わごと)というが、これを写実的に演じる名優がいた。坂田藤十郎である。
 近松は、『曾根崎心中』の大ヒットののち、道頓堀竹田の芝居の座付作者となるが、それまでの前半生期には主に歌舞伎を書いていた。その頃の近松作品の多くを演じていたのが藤十郎である。主として、京都の舞台でである。
 藤十郎に匹敵する大坂道頓堀の和事師は、嵐三右衛門。立役(男役)では他に、片岡仁左衛門が名高い。女形で人気を博した役者に、水木辰之助、芳澤あやめなどがいた。彼らの名を染め抜いた幟が、連日、道頓堀の川風に景気よくはためいていたことであろう。
 道頓堀が公許の芝居町となるのと、もう一つの悪所(廓)が道頓堀の西北、西横堀向こうの「新町」に集中統合され、公許の傾城町となるのとほぼ同時だった。
 しかし、道頓堀が殷賑をきわめだすと、川向こうの宗右衛門町を含む島の内一帯をはじめ堂島、曾根崎にまで、限りなく悪所に近い茶屋が出現する。
 近松が世話物の名作を書いた時代には、新町で格式高く豪遊するよりも、島の内や北の新地などの安直な茶屋通いが大いに持て囃された。
 坂田藤十郎が自作・自演したものに『夕霧名残の正月』がある。
 夕霧は、江戸の吉原・京の島原と並び称される大坂は新町にあった扇屋の名妓だった。その名は日本全国に鳴り響いたという。その夕霧が27歳で病死してしまった。死を悼む民衆の心を、藤十郎は巧みにすくい上げ舞台に乗せた。藤十郎、32歳の時のこと。
 夕霧の愛人・藤屋伊左衛門に扮した藤十郎は、これを機に一流の役者として認められ、生涯のうち「夕霧」を主題とした狂言を18回も演じた。彼の死後、近松はこの和事の名優を追善する思いで、『夕霧阿波鳴波(ゆうぎりあわのなると)』を書いている。
 新町随一の置屋扇屋といえば、初代中村鴈治郎の生家でもある。万延元(1860)年、扇屋の一人娘・お妙と、当時、道頓堀雀を騒がせた三代中村翫雀との間に生まれている。
 長ずるに及んで、『心中天網島』の治兵衛役はもとより、その頃、つぎつぎに歌舞伎化された近松の心中物の和事師として道頓堀で名を馳せる。
 その実子・二代目の和事師ぶりも記憶に新しい。
 二代目と現三代目(当時・扇雀)共演による「お初・徳兵衛」(『曾根崎心中』)、「紀の国屋小春・紙屋治兵衛」(『心中天網島』)などの名舞台を懐かしく想い出される読者も、さぞ多いことであろう。『夕霧阿波鳴波』も『廓文章(くるわぶんしょう)』と書き替えられ、「夕霧・伊左衛門」いずれの役どころも成駒屋(鴈治郎の屋号)の御家芸として今に受け継がれている。
 現在「近松座」を主催する三代目鴈治郎の至芸のうちにこそ、道頓堀時代を忍ぶよすがが秘められているのである。
◇◇◇
廓はしかたないにしても、
芝居の劇場までが
「悪所」と呼ばれていたとは、
今の感覚では信じられません。
しかし、「悪所」と形容されるほうが
魅力的に感じられるのが
不思議です。

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(管理人)

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