碁打ち衆への「家屋敷拝領の覚書」などをみると、本印坊家が常に筆頭とは限らないことが分かる。慶長17年の「御扶持方給候事」の時点で筆頭者であった本印坊算砂が、先例により重んじられていたに過ぎなかったようだ。
つまり、先に述べた四家元といえども、時代により伎倆(ぎりょう)は異なるわけで、常に本印坊家が碁所の司でありえたわけではない。神技の持ち主と目される名人(9段)の域に達すれば、幕府から碁所の地位が与えられ、家元四家の上に立って号令できることとなる。
よって、碁所という最高栄誉を勝ち取らんがために、四家、なかでも本印坊・安井・井上の三家の間で激しい烏鷺の争いが展開されたのである。
たとえば、第二世安井算知と第三世本因坊道悦の、寛文8年(1668)から7年間続いた対局などはその最たるものであろう。
碁打ち衆の頂点の地位にある碁所は、おおよそ次のような役割を担っていた。
1 御城碁(江戸城に出仕しての碁の対局)に参加する碁打ち衆を代表する。
2 強弱による碁打ちの全国的な統一した基準を定め、棋力を認定し、免許状を発行する(これは、碁所または宗家の重要な収入源となった)。
当時、最高位は名人(9段)、次いで準神技級の準名人が8段、その下位の7段を上手と称し、人間技での最高位とされた。
本因坊家は、他の三宗家とともに徳川幕府瓦解の日まで、約200年にわたって扶持を受領し、その間5人の名人碁所を生んでいる。
この後、大正13年(1924)、日本棋院が創立され、本因坊家は伝統的な段位授与権を譲り渡した。これにより、家元制度は完全に消滅してしまった。
そして、昭和14年(1939)に第21代本因坊秀哉(しゅうさい)が引退するとき、本因坊の名称を日本棋院に寄贈した。以後、「本因坊」はタイトル戦の名称として現在も残っている。