「早稲田学報」 
1985(昭和60年)4月号に掲載

「ノンシャラン派」

三宅孝太郎を読み解くための
キーワードのひとつ!

 私の乏しいフランス語の語彙の中で、二十年来、心に深く住みつき、ときに生き方にまで関与してくるものの一つに、“ノンシャラン”がある。
 語意は、のんき、風来坊、無頓着、怠惰などなどだが、これほどしゃれた日本語的語感を伝えてくれる外国語も数少ないのではなかろうか。
 ロマン溢れるこの語感にふれると、私はなぜか江戸の町を着流し姿で歩くいなせな若者のイメージを抱いてしまう。
 私の中でのそれらの若者は、多く芝居者であるわけだが、実際は世間から鼻つまみ扱いされている遊び人であるやもしれない。
 と、考えてくると、ノンシャランにはどこか頽廃的なニュアンスも感じとれなくはない。
 しかし、頽廃を思わせる若者の心象は、その時代の政治や社会組織の頽廃の実像を映し出しているのではあるまいか。その鏡の奥をいま少し仔細に覗きこんでみると、ノンシャランな若者の姿勢が、状況に対する抵抗者のそれとして浮かび上がってくるのである。
“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。”という箴言を、私たちは既に得ている。
 現在の身のまわりを思うとき、智が先行し角が立ちすぎてはいないだろうか。
 科学的、合理的という名分のもとに、情感を軽視する風潮がいぜんとして横溢しつづけているようだ。
 こんな状況で人間性の回復を願う者は、ノンシャランな姿勢をとることにならざるをえまい。
“ノンシャラン”には、もう一つ大切な“冷静”の意のあることをつけ加えておかなければならない。その故に、ノンシャラン派の人びとは、単に脆弱な現実逃避者ではなく、冷静な批判力を有する抵抗者であるといえるのではないだろうか。
 昨年度のオール讀物新人賞を得た拙作「夕映え河岸」と題する江戸の人情噺の主人公は、まさに、時代が生んだノンシャラン派であった。
 さほど意識してこの人物を創り上げたわけではないのだが、これも私の中に巣くった例の語彙が行わしめた所産であろうと、今さらながら思い至る。また、時代の合理的な規準から外れている者を、落ちこぼれだとかドロップアウトとかの名で抹殺し去ろうとするモノへの拙い抵抗だと思いたい。
 誤解を恐れずに言えば、畢竟、文学や芸術は、ノンシャランな姿勢から生まれるもの。
 智がかちすぎた時代に対処するには、知情意の三体を兼ね備えた人物よりも、情や意を慈しむ人物の創造こそ必要だと思うのである。
 情と意を重視する人情噺こそが、いま待望されなければならないのではないだろうか。
 時代錯誤と笑わば笑えである。
 ちなみに、時代の子としてのノンシャラン派の系譜をたどってみると、世話狂言の主人公たちから、落語の八ッつぁん、熊さんをへて、今日の寅さんに至るだろう。
 彼らは、各時代の情感を愛する人びとに絶大な支持を得ている。それは、合理的圧力がかかればかかるほど、人びとが人間性を求める故の当然の帰結である。
 私が、人情噺を中心に各時代のノンシャランを書きすすめ、いつの日か現代のそれに至るべく努めたいと願うのは、この辺りに理由があると言えよう。
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三宅孝太郎の言う「悪女」とは、
「ノンシャラン」であるのか?
『「悪女」は、こうして生まれた』
(ちくま新書)には、
「各時代のノンシャラン」が
はたして描かれているのか、
どうかその目でお確かめください!

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(管理人)

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